最後のフィルム世代より

終わりが来る前に、まだ出来る事がある。

060.面影の先へ

いつも日記なんて書いてらんないから『お話』でも書きますよ。
しかしこういうのを書くと、縦書きは日本の文化だなぁと思うのだ。
まぁ続くか判んないですけど。


その1


僕は祖父の事を、よく知らない。
子供の頃はそりゃあ一緒に遊んでもらった、その事はちゃんと覚えている。
その時の祖父は銀縁の眼鏡を掛けて笑顔で笑っていた。
僕が笑う時も、つまらなそうにしている時も、
将棋で負けそうになって泣きべそをかいている時も、
それでわざと負けてくれて、そうとも知らず僕が喜んでいる時も、
祖父はニコニコと笑っていた。

でもそれだけだった。大きくなるに連れて祖父とは会う事も減って行き、
そうして高校三年の夏に祖父は亡くなった。突然だった。

最近になって祖父と話したい事が随分と増えている。
『なくなってから初めて気付く事もある』というが、それはあまりに多過ぎた。
僕はあの人の笑っている顔しか知らなかったのだ。

いや、そうではない。一度だけだが、そうではない顔を見た事がある。

あれはまだ僕が随分小さい時だった。多分小学校に上がっているか否か。
祖父は会社を辞めてから町に小さな事務所を借りて、そこで『仕事』をしていた。
そこは不思議な匂いが立込めていた、今でもあれが何の匂いなのか、判らない。
そして、そこで祖父が一体何を『仕事』としていたのかも、僕は知らなかった。

大体僕が遊びに行く頃には祖父は『仕事』を切り上げていたから、
僕達が会うのはいつもリビングだった。四本の太い足を持った、円形のテーブルがあって、
その上にお菓子や牛乳の入ったコップ、将棋盤をよく広げていたものだ。

その日、いつも通り事務所の扉を開けてリビングに行くと、祖父は居なかった。
事務所の中は随分と静かになっていて、奥の部屋に掛けてあるだろう風鈴の音がたまに聴こえた。
僕はとりあえずテーブル備え付けの椅子に腰をかけて、祖父を待つ事にした。
少し背伸びをする形で椅子に座り、両足がブラブラと揺らす。どっかに飛んでいきそうな感覚。
しばらく経って、入口近くにあったトイレから水の流れる音がして祖父が出てきた。
祖父は僕を見ると、

「おっ、もうそんな時間か。ゆっくりし過ぎてしまったな」

といって僕の頭に手を乗せ、少し撫でてくれた。手には少しだけ水が残っていた。

「そうだな、あと五分で終わるから。ちょっとここで待っていておくれ」

祖父はいつもの笑顔で僕に笑いかけた後、リビングの奥の扉の方に向かった。
そこは祖父がいつも仕事をしている、らしい部屋だった。確証はない。
木製の分厚い扉で、ノブは丸い木彫りで出来ていて、色は随分濃くなっていた。
祖父がそれを捻り、手前に引いて扉を開ける。その一瞬、部屋の中が見えた。

夕方前の日差しが差し込む部屋に、一人の女性が立っていた。
黒の服を来た、若い女性。顔は遠くてはっきりとは見えなかったが、美人だったと思う。
白い顔に口元に塗られてたであろう、淡い赤の口紅が印象的だった。
祖父が「すまんな、早く終わらせてしまおう」と言うのが聞こえた。彼女は頷く。
扉を閉じる時、祖父が僕の方向に顔を向けた。
その顔からは先ほどの微笑みは消えていて、口はきっと結ばれていた。

僕が祖父のそんな顔を見たのは、それが最初で最後だ。