092.フィルムカメラの存在意義について考える
最近になってフェドを、そしてまだ話さないけどあるカメラを購入し、
ネガフィルムを現像に出す機会が多くなった。
大体月に2回、2本のフィルムをいっぺんに出している。
つまり4本。これは、撮り過ぎだろうか。
正直な話、フィルムカメラなんてちゃんと使うのは4半世紀生きてきて初めてだから、
どれくらいの粒度というか、感覚で撮って良いのかさっぱりだった。
だから少しでも気になった場面があったら、慌ててiPhoneの露出計アプリで露出を測り、
ピントを合わせてシャッターを切った。そしてF値やらシャッタースピードやらを変えず、
酷い時はキャップをしたまんま撮ったりしてコマを無駄に浪費した。
そんな感じで大体6本くらい消費しただろうか。段々落ち着けるようになってきて、
今新しいフィルムを装填したカメラは二日目にして一枚も撮っていない。
そりゃそうだ。通勤時に撮りたくなるようなシーンなんて早々ないからね。
これは家の近くの茂みなんだけど。コレは別にフィルムじゃなくたっていいじゃないか?
E-M5に一発持ってる高機能なズームレンズ使えばもっと良い絵が撮れるだろう。
じゃあどういうのが「フィルムで撮るべき写真」なんだっていう話にもなる。
それはつまり、
こういうものになるんだろう。意図していない効果が生じて、無かった時よりもきっとグッと良くなった。
僕はデジタルカメラネイティブな世代だから、せわしない。
フィルムカメラは、今まで全部カメラがやってくれていた事をしなくちゃいけない。
そのスピード感は僕からしたら随分遅くて、撮りたい気持ちを焦らせてきていた。
でも、ちょっとずつだけど、フィルムカメラの『流れ』の速度がわかってきた。
あとはその速度へのスイッチングが上手く出来るようになればいいのだ。
次のフィルムはいつ撮り終わるだろう。今度は『流れ』を楽しんで撮っていきたい。