149.何を作りたいかちょっと考えてみる
僕にとって写真は「記録」と「作品」のふたつの面がある。
「記録」はそのままの意味で、出かけた場所や、食べた料理や、
その時一緒にいた皆を撮っておいて、思い出すためのもの。
全てクッキリと覚えておければいいんだけど、生憎忘れやすい僕は
それがないと、とてもじゃないけど覚えておけない。
神楽坂の商業施設で食べたブラウニーとアイス。
アメリカンコーヒーと彼女の協力でなんとか食べ切れたんだっけ。
これの前に魚串の定食をしっかりと食べていたからだ。
もちろん、このサイズが出てくるとは思ってもなかったよ。
本当に食べたかったクレープシュゼットだかは売り切れていたんだ。
で、もうひとつの「作品」。これが難しい。
難しいっていうか、ちゃんと考えてきてなかったツケなんだろう。
一体何を持って「作品」っていえるんだろう?
これは乗り換えを待っている間、向かいのホームを撮った写真。
これは「記録」より「作品」だ。
『向かいのホームに人が一人立ってるな。記録しとこう』ではなく、
『なんかいい光景だな。撮っておこう』で撮った。
これを「作品」たらしめているのは、その「なんかいい」っていう感情で、
じゃあ僕はこの写真の一体何がいいと思ってるんだろう?
こういうのを言葉にすると大抵陳腐になりがちだけど、言っとくならば、
「一人で行く道の先がまだ捨てたものではなさそうだという希望」だろうか。
ここに写ってる人はそんなつもり、まるでないんだろうけど。
「作品」は作ってる側のエゴのかたまりだ。
話がちょっと変わるけど、
僕は中学2年の頃からずっと日本のロックシーンを追い続けてる。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONからいろんなバンドを知ってから、
そのアーティスト達から思考的な影響もモロに食らいながら。
今でも音楽を聴かない日は一日としてないし、聴けないと不安だ。
でも残念ながらバンドマンとして大学4年間を過ごすことは出来なかった。
一度だけ組んだバンドはベースとドラムが学校関係で喧嘩して解散した。
僕が好きなロックは、邦楽でも洋楽でもそうだが、
青臭くてやや後ろ向きで、多かれ少なかれ未来に希望を持ってるやつ。
全てに言えるわけじゃないけど、得てして好きになる曲はそういうのが多い。
僕は彼らが音楽を通じてやってることを、どうにかして自分もやりたいのだ。
それを写真でやってみようと思ってるんだろ。
聴いてると脳の裏がヒリヒリしてくるような焦燥感を。
後ろ向きになりがちだけど前を向こうとする希望を。
僕は彼らに写真でなりたいのだ。
音楽で僕をそうしてくれ続けてくれてるように。
見た人の感情を動かす写真を撮りたいのだ。